戦後の住宅と昭和とそれ以降の建築!建築家と作品たちについて




インテリアの歴史

第二次世界大戦前後の時代です!

国民の生活は戦時体制に巻きこまれていきます。そんな中でも、建築は発展して新しい時代を生んだり、家具の発展をうかがえる時代ですね!

ル・コルビュジェの指導を受けた前川國男、坂倉準三らが活躍し、家具などデザインでは、新しい生活工芸を目指して、蔵田周忠を中心に型而工房が結成されました!

今回は、『戦後の住宅と昭和とそれ以降の建築!建築家と作品たちについて』と題して紹介します。



昭和前期の建築とデザインについて

1930年代に、ル・コルビュジェの指導を受けた前川國男、坂倉準三らは、コルビュジェの影響をうかがわせる作品をつくっています。

1937年のパリ万博博覧会では、坂倉準三が、ル・コルビュジェが編み出したピロティという建築様式を用いて日本館を設計しました!

ピロティとは、建築物の2階部分を柱だけで支え、1階部分が通り抜けできること♪

日本の伝統的な木造住宅を鉄骨造で表現し、調和のとれた建築として高い評価を得ました!

前川國男は、東京帝国大学工学部建築学科卒業後に、フランスのパリでル・コルビュジェの事務所に所属した。

代表建築に、東京文化会館、京都会館(ロームシアター京都)、神奈川県立音楽堂、神奈川県立図書館などがあります。

他にも自邸や東京都美術館もあります。

東京都美術館

日本の美意識と空間概念、歴史的生活文化を継承する戦後モダニズム建築を開拓しました。自邸には、あたらしいインテリアの感覚が示されています。

前川國男邸には、美しいといわれるシンメトリーで、木造モダニズムの傑作とも言われています。

1960年代以降の日本の建築デザインは、国際的な動きに同調して、モダニズムの拡大を基調にしながらも、世界デザイン会議などによって世界に影響を与えました!

坂倉準三は、東京帝国大学文学部卒業、フランスのパリでル・コルビュジェの事務所に所属した。

代表建築に、日本館、神奈川県立近代美術館などがあります。

また、国際文化会館は、前川國男、坂倉準三、吉村順三の3人が共同で設計しました!

ちなみに、東京帝国大学は現在の東京大学です!!

住宅では、帝国劇場を設計した谷口吉朗、和風建築の名手の山口文象、フランク・ロイド・ライトの事務所タリアセンで学んだ土浦亀城などが活躍しました!

帝国劇場

特に、土浦亀城は、1935年に建てた自邸では、木造の乾式構造が採用されました!
直線で構成された白塗りの外観は、まさにモダニズム建築を感じさせるものでありました!

個人的に、鉄骨造やコンクリート構造のように見えるのに木造なのが面白いですよ♪

一方で、日本の伝統的な住まいに見られる外部空間との融合を生かし、近代的な機能分布を工夫した住まいのデザインも普及し始めました!

1926年には、藤井厚二により設計された聴竹居があります。

聴竹居は、藤井厚二の自邸です。環境工学に着目して建てられた住宅で、日本の気候・風土に西洋空間を合わせた和洋融合がなされました!!

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家具・工芸の分野でのデザイン

家具の分野では、1928年、ヨーロッパの表現主義の影響を受けた森谷延雄が、木のめ舎を作り、芸術としての家具デザインを始めました。

新しい生活工芸を目指して、蔵田周忠を中心に、豊口克平らが参加して型而工房が結成されました!

型而工房は、「生活を基礎として作る、生産工芸家具」を目標に、構造形態の簡易化、部材の規格化、形成寸法の統一などについて調査や実験を行い、作品展を開いて活発な啓蒙運動を行いました♪

この工房では、家具などの生活工芸品を標準規格化して量産することを目的として、製品の調査や研究を行いました。

さらに、実際にイスの設計から製造・販売までをも手掛けました。

1933年には、ドイツの建築家、ブルーノ・タウトが来日してくれました!

ブルーノ・タウトの指導によって、産業工芸は、美術工芸との違いを明確にして、新たな工業デザインの方向に進みました。

デザイン界で活躍するとともに、著書『日本美の再発見』などで、桂離宮や伊勢神宮などに見られる日本建築の美しさを紹介しました。

1940年には、ル・コルビュジェの弟子の女性デザイナーのシャルロット・ぺリアンも来日して、日本の工業デザインに大きな影響を与えています!

同時期には、ウィリアム・モリスなどの思想に共鳴していた柳宗悦を中心に、伝統的民族工芸の保護・育成を目的とした民芸運動「民衆の芸術」が起こりました。

日常生活の中で使われる民衆工芸の製品に、目が向けられるようになりました!
民芸家具と呼ばれる領域を広める契機となりました。

その後、日本民芸協会が設立されて、全国的に広がっていきました♪

戦後の住宅

第二次世界大戦中、空襲で多くの住宅が焼失して、日本は深刻な住宅不足に陥りました!

その対策として、1950年に住宅金融公庫を発足し、1951年に公営住宅法を制定しました。

1955年に日本住宅公団が設立されました。

同公団によって建てられたコンクリート造のアパートでは、いす座式生活が採用されました。
団地の設計には、西山夘三が提唱した食寝分離を基本とした家族の規模に応じた住まい方を設定した51C型と言われる2DKプランが採用されました。

このとき、はじめて台所と食事室が一体化したDKが誕生しました!!

西山夘三は、狭くとも食事室が優先されることに調査から気づいたのです♪

コンクリート造を導入して、ダイニングキッチン、ステンレス流し台、蛍光灯などがDK型住宅に取り入れられました。

これによって、台所が合理化し、家事労働が軽減されました。

一方で、戸建て住宅では、最小限住宅の試みが、新進の建築家によって展開された!

そんな中、浜口ミホによるキッチンの提案などを基にして、台所仕事などの家事労働の合理化への関心の高まりが見られました。

さらに、家庭電化製品の普及も誘引しました(^▽^)/

代表的な事例としては、池辺陽、増沢洵、清家清らによる住宅デザインがあります。

ちなみに、池辺陽は、立体最小限住宅を設計しました!

増沢洵は、最小限住居である増沢自邸を施工し、狭小住宅の傑作といわれています。

素材や空間寸法、構造体の新しい試みがなされ、生活の合理化によって民主的な家庭関係や、自由な生活様式が追求されました。

特に、アントニン・レーモンドのもとでデザインを学んだ吉村順三は、のちの日本の伝統的な空間寸法や木造技術、素材感覚、周囲の環境との融和とモダンな生活様式を融合し、単純で伸びやかな新日本風な住空間を作りあげました♪

インテリアデザインの進展

戦後、工芸指導所では、復旧住宅家具の開発、輸入向け木竹デザインの生産が行われました。

従来の日本の家具生産の企業規模が小さかったが、手工業的量産方式により品質管理も十分に行われなかったが、質の高い木製品を大量に安価に生産するシステムが紹介された!!

その中で米軍オフィサークラブのためのいす設計に関わり、イサム・ノグチやチャールズ・イームズとも交流して、後にジャパニーズモダンと称される新たな家具のデザイン潮流を生んだのが、剣持勇でした。

さらには、テキスタイルや照明などの分野でも、デザイナーの活動が盛んになっていきました!

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昭和後期以降の建築

日本の高度成長期において、建築業界は活況を呈し、建築家の国際的な活躍は目覚ましいものでした!

海外の建築家が来日して、日本にてさまざまな建築物を設計する一方で、海外で活躍し始めました。

また、世界的な評価を得る日本人建築家も増えていきました。

丹下健三は、国立屋内総合競技場(国立代々木競技場)や東京都庁舎などの作品があります。

なかでも、国立代々木競技場は、柱のない巨大な空間を半剛性吊り構造システムを使い実現しました!!

国立代々木競技場 東京都庁舎
「世界のタンゲ」と呼ばれた!!

黒川紀章は、中銀カプセルタワーを設計しました。

このタワービルは、メタボリズム建築の代表作です!
140のカプセルからでき、必要に応じて脱着可能なかたちとして構想されました。

菊竹清訓は、スカイハウスや銀座テアトルビルを設計しました。

スカイハウスは、ワンルームで、見た目は、床が宙に浮いているかのような建築物です。

安藤忠雄は、住吉の長屋があげられます。

打放しコンクリートの住宅で、中庭があり、なんと雨の日は傘を差さないといけない設計です。

寒さ・暑さそして、光といった自然の変化と向き合える住まいです!

伊東豊雄は、せんだいメディアテークがあげられます。

この建物は、ユニバーサルスペースといわれる内部空間を限定することなく自由に使えるような構造になっています。

森の中にいるような空間になっています。
自然と一体化しているような建物です!

他にも、磯崎新は、つくばセンタービルを設計しました。サントリー美術館の隈研吾。金沢21世紀美術館の妹島和世と西沢立衛(SANAA)などが活躍しています。

つくばセンタービル 金沢21世紀美術館

従来の住宅のイメージを覆すものも多かったです。

まとめ

今回は、『戦後の住宅と昭和とそれ以降の建築!建築家と作品たちについて』と題して紹介しました。

建築では、1937年のパリ万博博覧会では、坂倉準三が、ル・コルビュジェが編み出したピロティという建築様式を用いて日本館を設計しました!

住宅では、帝国劇場を設計した谷口吉朗、和風建築の名手の山口文象、フランク・ロイド・ライトの事務所タリアセンで学んだ土浦亀城などが活躍しました。

土浦亀城は、1935年に建てた自邸では、木造の乾式構造が採用されました!

新しい生活工芸を目指して、蔵田周忠を中心に、豊口克平らが参加して型而工房が結成されました!

第二次世界大戦中、空襲で多くの住宅が焼失して、日本は深刻な住宅不足に陥りました!

1955年に日本住宅公団が設立されました。同公団によって建てられたコンクリート造のアパートでは、いす座式生活が採用され、団地の設計には、西山夘三が提唱した食寝分離を基本とした家族の規模に応じた住まい方を設定した51C型と言われる2DKプランが採用されました。

以上になります。

最後までご覧いただきありがとうございました!

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